輝いてこそ技術 SINFONIA シンフォニアのあゆみ(創業1917年)

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江戸川乱歩とシンフォニア

鳥羽おとぎ倶楽部

乱歩こと平井太郎は、社員の同僚などと鳥羽の劇場や小学校で、子供たちに御伽噺を聞かせる会を開く活動をしていました。
この時、近隣の坂手島で小学校の教師をしていた村山隆子と知り合い、のちに結婚します。

  • 乱歩が描いた妻 隆子(24歳時)
  • 大正7年当時の名刺

乱歩が発行兼編集人として創刊した社内報「日和(にちわ)」

乱歩は当社初の社内報「日和」を発行兼編集人として創刊する事となりました。
「技師長桝本氏が大変熱心で私は全く会社の仕事をしないでもよいように」(乱歩自伝より)ということでした。
大正7年11月15日に創刊した造船所機関誌「日和」がどういう雑誌であったかというと、造船所と地元の方々との融和が目的の雑誌でした。その背景としては、急激にふくれあがった造船所員と地元の対立から暴動まがいの混乱が起きて社会問題化していたからです。なお、日和の由来は、鳥羽城跡の西に位置する日和山(ひよりやま)から取ったもの。乱歩は、両者の融和への願いを込め、あえて日和(にちわ)と呼ぶように命名しました。また、この創刊号の中で乱歩が「鳥羽造船所の歌」を募集しているところも面白いです。

乱歩が創刊した「日和」は翌月12月15日に第2号が発刊されています。1号に続き乱歩が巻頭に「庬雑より統一へ」とのタイトルで、日本が明治維新後、急速に西洋文化を取り入れ、統一に向かっていることを示したあと、鳥羽造船所の拡大による外部からの人員増加においても、地元住民と造船所員の融和、統一を熱心に呼びかけています。
※庬雑…はっきりとせず、バラバラな状態

残念ながら、この2号発刊後、3号の原稿を後任へ託し、乱歩は当社を退社することになります。
また、「日和」自体も各工場でそれぞれ作られていた社内報を、鈴木商店の神戸本店でまとめることとなり3号をもって廃刊となりました。
乱歩は自伝の中で「私は生活のためにいろいろな職業をやったが、この鳥羽の一年余りが一番面白かった」と語っています。

それから45年後の1963年に、当社では社内報が再開され、乱歩の説いた融和の意思を受け継ぎ、現在まで発刊を続けています。

「日和」創刊号表紙(章だけでなく、イラストも全て乱歩が描いている)
  • 「日和」最終頁のコラム“無駄話”
  • 「日和」最終頁の編集後記
「日和」第二号 乱歩直筆のイラスト

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