輝いてこそ技術 SINFONIA シンフォニアのあゆみ(創業1917年)

大正時代からバッテリー車の開発に挑む産業車両編

ビートルズ来日を“支える”

1966(昭和41)年、世界の音楽シーンを震撼させた英国の4人組・ビートルズが来日した。日航機から手を振りながらパッセンジャステップ(タラップ)を降りてくる姿は、時代を象徴する映像として人々の記憶に深く刻まれた。

昭和35(1960)年、日航のDC-8型機用に開発した日本初のパッセンジャステップを手始めに、当社の製品は日本の空港を走り回っている。航空機に荷物を積み下ろしするためのハイリフトローダ、ベルトローダ、航空電源車などの空港用特殊車両は当社の得意とするところだ。

100年前からバッテリー車に挑む

空港用の特殊車両に日本企業として初めて進出できたのは、大正時代より、当社創設時の技術の祖である小田嶋修三がバッテリー式車両に挑み、技術と経験を積み上げてきた上に生まれた成果の一つである。

小田嶋は1920(大正9)年から1年半をかけ、欧米の電機メーカーを視察した。そして、米国の工場を見学して衝撃を受けた。工場敷地内をバッテリー方式の運搬車が走り回っていた。当時の日本ではもっぱら人力による荷車、手押し車であり、人では運べないような重量物の運搬は牛馬に頼っていたのである。

小田嶋は帰国直後からバッテリー式の運搬車開発に着手、1922(大正11)年には1トン積みのバッテリー式運搬車の試作1号機を完成させ、その後、佐世保海軍に4台を納入している。

当社は1917(大正6)年の創業当初から船舶のウインチなどに用いるモーターを生産。翌年には蓄電池研究室を設立、バッテリーの研究開発を始めており、日本の蓄電池の黎明期である100年近く前にもかかわらず、バッテリー車に挑む条件は整っていた。当社は設立当時から他社のやらない最先端技術に挑戦する気風に満ちていたのだ。

バッテリー式運搬車は当時の鉄道省にも構内用運搬車として納入され、上野駅構内の散水車にも使われていた。さらに引き込み線用のバッテリーロコ(バッテリー機関車)も納入している。バッテリーロコはその後も性能向上を続けて発展し、戦前戦後を通じて鉱山やトンネル掘削現場で大いに活躍した。1970年代の列島改造ブームのころは新幹線のトンネル掘削用だけでおよそ200台が採用されている。

バッテリー式運搬車は産業用車両としてバッテリーロコのほかに、電気自動車、フォークリフト、空港用特殊車両、工場用無人車などさまざまな分野に応用が広がったが、その中の一つにブロック台車がある。

大型化するブロック台車

戦時中、造船の世界では海防艦、輸送艦などの生産効率を上げるため、船体をブロックごとに並行して作り、そのブロックをつなぎ合わせて船体全体を作るブロック工法が開発された。戦後、ブロック工法は普及・発展し、船の巨大化に伴ってそのブロックも巨大化していった。

ブロックが巨大化すると、作ったあとに移動するのが一苦労だ。そこで活躍するのが、巨大で重量のあるブロックを載せて造船所内を移動するのに特化したブロック台車である。当社は1964(昭和39)年、80トン積みのバッテリー式ブロック台車を開発してこの分野に参入、経験を積んでいった。

そして、1972(昭和47)年には北海道の造船所向けに、当時は珍しかったサイリスタ制御を使った200トン積みディーゼル式ブロック台車を製作した。ブロックの重量を支えるため多数ついた車輪は、その場で90度回転させることができ、ブロック台車を真横に移動させられる。

ブロック台車は当社の伊勢工場で製作していたが、ここまで大型化すると、製作や塗装する場所の確保が困難なうえに、工場の門から出すことができない。そこで九州・大分の工場を借りてブロック台車を最終的に組み上げた。

しかし、製品である大型ブロック台車を九州から北海道へ輸送しなければならず、結局、輸送費のおかげで儲けがほとんどなくなった。その後、大型ブロック台車は最終納入先の近くの工場を見つけて最終組み立てすることで、輸送コスト削減に努めることになった。

1989(平成元)年には、当社最高記録であった400トン積みブロック台車も作った。ブロック台車の技術は鉄鋼会社の鋼材運搬用台車にも使われるようになり、日本の重工業の発展に貢献している。