輝いてこそ技術 SINFONIA まもなく創業100年

大正時代から電気自動車を製造電気自動車編

電気自動車創世記から活躍

当社は戦前から戦後しばらくまで電気自動車を手掛け、公共交通機関として各地の都市で当社の電気バスが走っていた。こう聞くと驚かれる方も多いだろう。

当社は鳥羽造船所の電気部門として創業した翌年の1918(大正7)年、鳥羽の奥谷に蓄電池研究室を設立。創業から5年後の1922(大正11)年には、早くも工場内の搬送などで用いる1t積みのバッテリー式運搬車の1号機を試作し、佐世保海軍工廠に「LP-1形」4台を納入している。

また、この運搬車を開発した時、電気自動車への展開も想定していた。そのため、横浜の運送会社からの要請があると、「LP-1形」のシャーシーを用いて貨物配達用の電気自動車を比較的スムーズに開発できた。これが当社の電気自動車の第一号機である。

また、蓄電池メーカーの要請で、ガソリンエンジン式の三輪貨物車を電気式の三輪貨物車に改造するなど試行錯誤を繰り返し、電気トラックを洗練させていった。特に0.75t積みの電気式小形トラック(通称「小トラ」)は配達用として好評を得ていた。

戦前、56台の電気バスを納入

大形の電気自動車ではバスが好評だった。

1936(昭和11年)、大阪市電気局の通称赤バスに対抗して青バスと呼ばれていた大阪乗合自動車からの発注にこたえて電気バス10台を納入。交通当局の統合推進策により、大阪乗合自動車は大阪市電気局(現・大阪市交通局)のバス事業に統合された。その後、大阪市電気局にも1943(昭和18)年までに電気バスを計19台納入している。

充電に時間がかかるため、大阪市電気局は蓄電池交換所を設け、予め充電を済ませたバッテリーを交換する方式をとっていた。交換時間は約5分。電気バスは天神橋筋六丁目―難波間などの路線を約3時間走行したのちにバッテリー交換所に戻ってきたという。

「石油の一滴は血の一滴」といわれるほど石油が枯渇した時代であり、電気バスは国策として推奨されたのである。

当社の工場が陸海軍の軍需品生産に専念する1943(昭和18)まで、このほかに伊勢の神都交通(神都バス)に10台、関西急行鉄道(現近畿日本鉄道)に5台、両備バスに10台、計54台の電気バスを製作・納入している。

前が突き出たボンネットバスと異なり、前後とも突出部のない現代に通じるその斬新なスタイルは「神鋼バス どちらが前やら 後ろやら」と川柳にもなったほどである(当時、当社は神戸製鋼所鳥羽工場だったので、神鋼バスと呼ばれた)。また、口の悪い人は「鼻のない象」と言っていた。

終戦直後の混乱期、深刻な石油不足が続き、電気自動車の需要は続いた。戦災の被害により都電が動かない東京に電気バス20台を納入した。これが戦後の電気自動車生産再開のきっかけとなった。また、「小トラ」は官公庁向けに需要が活発であった。

しかし、1948(昭和23)年ごろからガソリン・軽油が出回り電気自動車の需要に陰りが出始め、当社の生産は、工場や鉄道車庫、鉱山などを走る構内用の蓄電池式運搬車・牽引車にシフトしたのである。

公害対策用の電気自動車を開発

こうして戦前戦後の電気自動車の時代は去ったのだが、約20年後、昭和40年代に入って公害問題がクローズアップされ、排ガスの出ない電気自動車が再び脚光を浴びた。

当社のサイリスタによる電子化技術に中部電力の総合技術研究所が注目し、電気自動車の共同開発が行われることになった。同研究所と共同で1966(昭和41)年の第一号車を手始めに1969(昭和44)年までに第三号車までを開発、これらの電気バスは中部電力の巡回サービスに使用された。さらに、1971(昭和46)年3月には小型バスを共同開発、この電気バスは浜岡原子力発電所の見学などに使われた。

1970(昭和45)年、ソニーは金属亜鉛を用いた燃料電池車のプロトタイプを発表したが、当社は電動機、制御装置の開発を担当した。この燃料電池方式の試作車は1回の充電で走行距離400kmを達成した。

また、通産省工業技術院(現産業技術総合研究所)の大型プロジェクトでも、日産自動車を主委託メーカーとして、「小型電気トラックの研究」が取り上げられた。1971(昭和46)年、当社はこのプロジェクトの再委託メーカーとして「電気-油圧ハイブリッドブレーキシステムの研究」で参画している。

それからさらに50年、ようやく電気自動車が実用的なクルマとして現れ始めてきた。当社は電気自動車用の試験システムを自動車各社に供給し、電気自動車とのつながりを保ち続けている。